交通安全コラム

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地上最高速の争い(13)―蒸気自動車と結婚した男(2)―

前回は、蒸気自動車に生涯を捧げたフランス人、レオン・セルポレの若き日を紹介した。
今回は、彼の量産車の開発までを見ていく。

◆プジョーの支援
セルポレは、続いて、エンジンを強化し、歯車で後車輪を駆動する三輪車を製作した。完全主義者なので設計は素晴らしく、クルマはライバルより高性能であったが、資金不足に悩まされていた。そこで、自転車製造で成功し、自動車への参入の野心を持っていたアルマン・プジョーから支援を得ることにした。次のクルマは、プジョーの工場で製作され、パリ万博に出品された。

◆耐久走行
翌年、セルポレは友人と、このクルマでリヨンまでのツーリングを試みた。パリから郊外に出ると、わだちの跡が深い悪路が続き、細かい部品が脱落し始め、村毎の鍛冶屋で補修部品を作るはめになった。その上、梶棒まで折れてしまい、進路の維持に二人で身を乗り出して前輪を蹴り続けなければならず、4キロ先の次の村まで2時間もかかる始末だった。

◆平均時速3キロ
さらに、車軸の折損、ボイラー扉の脱落、シリンダーの過熱など、故障が続出したため、470キロの走行に2週間を要した。平均時速は3キロ程度だったが、これでも、軽量自動車の史上初のツーリングとして立派な記録である。帰路は、クルマを鉄道で送り返した。出発時550キロ程度だった車重は、途中の改修で700キロを超えていた。しかし、この努力が実り、1890年の終わりには、初の量産車を出荷することができた(図1)。

パリを走るセルポレの蒸気三輪車

◆米富豪の支援
それまで援助していたプジョーが、ガソリンエンジンに関心を移し、蒸気自動車事業から手を引いてしまうが、セルポレは、米国の富豪フランク・ガードナーの支援を得て事業を拡大し、翌年には、2気筒エンジンの四輪車を生産する。これは2段変速で、最高時速は25キロを上回り、1/12勾配の悪路を7人乗せて登れる性能だった。蒸気が上がるのに20分を必要としたが、車速は、梶棒の握りを回して水の供給量をコントロールすることで調整することができた。

◆スピードへの挑戦
後援者のガードナーは、セルポレに金持ちのスポーツマンや、のちに英国皇太子となるキング・エドワード7世のような上流階級の人たちを顧客として紹介した(図2)。セルポレは、これらの人たちが名声を得るために、レースで勝てる性能のよいクルマを必要としていることに気づいた。

上流階級の所有となった1891年のセルポレの乗用車

今回は、セルポレの蒸気自動車の事業化と、レースへの関わりの端緒を紹介した。
次回は、レースでのガソリン車への挑戦の経過をたどる。

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