交通安全コラム

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地上最高速の争い(10)―速度記録の歴史概観(1)―

前回は、時速100キロの壁を破ったジェナツィーの後日談と、彼の奇怪な最後を紹介した。
今回から、その後、速度記録がどのように進展したか、現在までの記録の変遷を概観する。

◆速度記録の定義
当初の速度記録の定義は単純で、助走して1キロあるいは1マイルの区間に入り、その区間の通過に要する時間を計測して、それから計算で求めた速度だった。
初期の頃は一方向だけの走行でよかったが、1910年に、道路の勾配や風が記録に影響を及ぼすことが考慮されて、同一区間の往復の走行が要求され、その平均速度を記録とするようになった。

◆FIAの細則
その後、モータースポーツを統制する国際機構である、フランス自動車クラブから発展したFIAによって、世界記録として公認されるための細則が制定されている。主なものは、①車両は少なくとも2個の車輪によって駆動されること、②復路の走行は、往路走行完了後1時間以内に行うこと、であった。

◆記録の非公認
記録の公認に関しては、多くの紛争があった。ドライバーの属する国が公認しても、フランスが大きな影響力を持つFIAが公認しないというケースが多かった。非公認の理由は、承認された計時方法ではない、一方向だけの走行である、走行方法に欠陥があった、などである。この非公認は、特に米国に対して適用されることが多く、1963年にジェット推進の三輪車で初めて時速400マイルの壁を破った米国人クレイグ・ブリードラブ(図1)の記録もFIAで公認されなかった。しかし、彼の記録は、二輪車のモータースポーツを統制する国際機構FIMによって公認された。

ジェット推進の三輪車 “スピリット オブ アメリカ”号

◆第一次大戦までの速度記録
1898年に時速39.24マイルで始まった速度記録は、1997年には音速を突破する時速766.609マイルに到達した(図2)。
1900年直前の一連のプロット(◆)は、すでに紹介した電気自動車同士のバトルであるが、以後、電気自動車は二度と記録を作ることはなかった。3年後にこの記録を破るのは、図では隠れて見難いが、蒸気自動車(□)である。しかし、この記録は4カ月足らずで、ガソリン自動車(▲)による初めての記録で破られる。その後、記録はガソリン車によって相次いで更新されるが、1906年に蒸気自動車によって奪還される。しかし、蒸気自動車の努力もここまでで、以降ガソリン車が記録を伸ばし、記録挑戦の勢いは第一次大戦(1914~1918年)で一時衰えるが、その天下が続くことになる。

速度記録の推移

今回は、速度記録の定義を紹介し、第一次大戦までの記録の変遷を概観した。
次回は、第一次大戦以降、現在までの速度記録の推移をたどってみる。

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