交通安全コラム

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自動車レースの隆盛―死の公道レース―

前回は、ミシェランによるタイヤの改良と優勝車を開発したプジョー社の業績を紹介した。
今回は、その後の公道レースの隆盛と事故、ルノー社の創業のエピソードを紹介する。

◆死のレース
1894年のパリ―ルアンの走行会が人気を呼び、翌年には距離を延ばして、パリ―ボルドーのレースが行われ、以後、公道での長距離レースが盛んになった。1903年のパリ―マドリッドのレースでは、200台を超える参加で、20万人、一説には30万人の観衆が沿道に集まったと言われた。しかし、事故も多発した。

◆公道レースの規制
ドライバー、同乗メカニック、観衆の犠牲者は、確認されたもの8人を数え、負傷者も多く、実際の死者はさらに多かったものと推測されている。このレースで、ルノー社創業兄弟のマルセル・ルノーが、ドライバーとして事故死している(図1)。レースは、第一日目のボルドーまでで中止となり、全車両は列車でパリに送り返されている。以降、フランスでの公道レースは禁止となった。

パリ―マドリッド レースでのルノー車の事故

◆ルノー兄弟会社
 このレースで、2着でボルドーへ着いた直後に弟の悲報を知らされた兄のルイ・ルノーは、6人兄弟の四男で、幼い時から機械いじりが好きだった。軍を退役したあと、ド・ディオンの三輪車を改造し、史上初めて、後輪への動力の伝達をチエンやベルトでなく、シャフトで行う四輪車を作り上げ、その静粛さで人々を驚かせた。そのクルマでパーティーに乗りつけたところ、買いたいという人が多数現れ、それがきっかけとなって、弟マルセルの勧めと協力、二男の資金援助で、1899年に自動車会社を設立している(図2)。

ルノー社創業の兄弟

◆ブランドの争い
長距離レースでは、クルマは信頼性と耐久性が重要になるが、短距離のスピードイベントではクルマの動力性能が勝負を決める。いずれの競技でも、その成績がブランドの評価につながるため、クルマの製作者達は、信頼性・耐久性と動力性能の向上努力を必死で続けなければならなかった。

◆レースと自動車技術
現在の自動車は、すでに高い完成度に達しているので、レースが実用車の技術進歩に大きな貢献をしているとは思われない。しかし、『走る・曲がる・止まる』の基本性能が不完全であった誕生直後の自動車にとって、初期の競技がその進化に果たした役割は、現在とは比較にならないほど大きなものだった。

今回は、公道レースの隆盛とその規制、ルノー社の創業のエピソードを紹介した。
次回は、初の地上最高速の記録を競う、二人の先駆者の対決への伏線を解説する。

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