交通安全コラム

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地上最高速の争い(28)―自動車史上の巨人の登場(3)―

前回は、レースでの幸運な勝利で設立できた新会社での、ヘンリー・フォードの失望と転機を解説した。
今回は、競輪選手、トム・クーパーから依頼されたレーシングカーの製作と最初のレース結果をお伝えする。

◆2台のレーシングカー
翌1902年の春に、デトロイトで一部屋だけの煉瓦作りの小屋を借りて、レーシングカーの製作が開始され、メカニックを務めるエドワード・ハフらの助けを借りて、2台のクルマが完成した。
その1台は “アロー”号と、もう1台は、ニューヨーク―シカゴ間で鉄道の速度記録を樹立したエンパイヤーステート急行の名前にちなんで“999”号と名付けられた。

◆機能本位の設計
クルマは、当時の水準でみても極めて粗野なものであった(図1)。エンジンは、ボアとストロークが7インチの4気筒(排気量17700cc)で、70馬力以上の出力があり、無駄なものは一切組み込まない方針で、ボンネットもボデーも付けなかった。先進的なスポークホイールに支えられた赤いフレームの上にはシートがあるだけだった。直立した舵柄(ティラー)で操舵され、メカニックが燃料タンクにつながる管に息を吹き込んでガソリンを気化器に送らなければならなかった、と言われている。

フォードのレーシングカー999号

◆もう一人の競輪選手
クーパーは、このクルマで効果的にレースをするには、もう一人ドライバーが必要なことに気付き、同じ競輪選手のバーニー・オールドフィールドを雇うことにした。彼は、がっちりとした体格の男で、自動車の運転をしたことはなかったが、新しいことには興味を示すタイプで、すぐにクルマの操縦に熱中した。
のちに、彼が速度の世界記録リストに名前を残すトップドライバーになるとは、この時の二人には予想できなかった。

◆初戦での勝利
オールドフィールドの初舞台は10月25日で(図2)、この5マイル製造者挑戦杯レースは、新進フォードの本当の技術力が評価される重要な一戦であった。
オールドフィールドは、すばやく宿敵ウィントンと他の二人を追い越した。999号を終始緑の柵ギリギリに走らせ、コーナーでも速度を緩めることはしなかった。4マイルでウィントンがエンジントラブルで脱落した。オールドフィールドは、残りの2人を1周遅れにして優勝し、フォードの名声を確かなものにした。これでフォードに、ふたたび支援者が現れ、“フォード・モーター・カンパニー”が設立される。

初めてのレースに臨むバーニー・オールドフィールド

今回は、競輪選手から依頼されたレーシングカーの設計と最初のレース結果をお伝えした。
次回は、新会社で開発された高価格車の販売不振で招く危機とその対策をお伝えする。

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