交通安全コラム

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地上最高速の争い(27)―自動車史上の巨人の登場(2)―

前回は、話を米国に移して、ヘンリー・フォードの生い立ちと、フォード車の販売促進のためのレース挑戦の経緯を紹介した。
今回は、レースでの幸運な勝利で設立できた新会社でのフォードの失望と転機を解説する。

◆無名新人の勝利
フォードは、1901年10月、デトロイト近郊の競馬場で、2気筒のわずか26馬力のエンジンで(図1)、40馬力エンジンの常勝ウィントンに挑んだ。幸運にも、ウィントン車はエンジン軸受の焼付きを起こし、勝利がフォードに転がり込んだ。人々の関心は、この無名の新人に集中し、その技術力が話題になった。

フォードの最初のレーシングカー

◆資金提供の申し出
このレースを観ていたデトロイトの企業家が資金の提供を持ちかけた。フォードは、渡りに船と二度目のビジネスを立ち上げることにし、早くも11月には新会社“ヘンリー・フォード・カンパニー”を設立した。彼は、いよいよ自分の考えで経営できる会社ができたと、期待に胸を膨らませていた。

◆意見の対立
フォードは、売り上げを増やす手段として、「速度こそが、クルマを売れるものにする」という確信に従って地上最速のクルマを作る決心をした。しかし、出資者は、投資の見返りがすぐに手に入る乗用車の開発に集中すべきだと主張した。
そのため、フォードはレース車の開発の作業を夜間に行っていたが、心はそのクルマに奪われていた。当然、乗用車の開発は順調には進まなかった。

◆自転車から自動車へ
競馬場でフォードの勝利を目撃していた観衆の一人に、競輪選手、トム・クーパーがいた。当時は、自動車のレースより自転車のレース、競輪の方が盛んであったが、すべての観衆の眼がフォードのクルマに釘づけになっている様子をみて、これからは自動車レースの時代だ、とクーパーは直感した。

◆レーシングカーの発注
クーパーは、早速、競輪から自動車レースに転向しようと、競輪で貯め込んだ大金を持っていって、自分のレーシングカーの製作をフォードに依頼した。フォードは、新しい会社で望んでいた自由が得られず、出資者に利益の多くを搾取されるのに嫌気がさしていたところだったので、これを契機に、ヘンリー・フォード・カンパニーを飛び出してしまう(図2)。 
その際、フォードは退職金に加えて、フォードの名称の使用権と設計途中のレーシングカーの図面を受け取っている。

1901年37歳のヘンリー・フォード

今回は、レースでの勝利により設立した新会社と、そこを退職する経緯を紹介した。
次回は、依頼されたレーシングカーの製作と最初のレースの結果をお伝えする。

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