交通安全コラム

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地上最高速の争い(26)―自動車史上の巨人の登場(1)―

前回は、英国の誇りとなる “ロールス・ロイス”誕生とロールスの悲劇をお伝えした。
今回からは、舞台を米国に移して、のちに自動車史上の巨人として君臨するヘンリー・フォードの速度への挑戦をお伝えする。

◆時計修理師
 米国での主役はフォードである。彼は、アイルランド移民を父とし、ベルギー移民の娘を母として、1863年にデトロイト近郊の農家に生れた。幼い時に懐中時計を与えられ、分解して遊ぶうちに時計の修理が上手になり、15歳で近隣からは時計修理師と呼ばれるようになった。母の死後、彼は農業を継がず、見習い機械工としてデトロイトで働いたあと、ふたたび農場へ戻る。

''◆エジソン社の辞任'7
農場で蒸気エンジンの扱いに熟達したことで、その蒸気エンジンの会社にサービスマンとして就職する。結婚後の1891年にエジソン照明会社に入り、主任技師へと昇進する。そこで時間と経済的な余裕ができたため、彼は、かねてから興味を抱いていたガソリンエンジンの実験を手始めに、1896年には四輪車を完成する(図1)。さらに改良を加え、1898年に2号車を組み上げる。 
ここで出資者が現れたのを機に、フォードは、上級管理職への昇進の保証を投げうって、自動車ビジネスに参入することを決心し、“デトロイト・オートモビル・カンパニー”を設立する。

図1 フォードの1号車(1896)

◆最初の挫折
ところが、商品はフォードの期待通りにはできず、品質は劣り、価格は高くなってしまい、会社経営は失敗に終わる。しかし、最初のビジネスに失敗しても、彼の信念は揺るがなかった。彼は、なんとしても先行する自動車会社を打ち負かすという野望を持ち続けた。特に、米国最大の自動車会社になったウィントンに対して闘志を燃やした(図2)。

図2 ウィントン車による初のアメリカ大陸横断(1904年)を再現したジオラマ

◆打倒ウィントン
当時、ウィントンは、すべてのレースで勝って、クルマの売り上げを伸ばしていた。それがフォードを苛立たせた。大衆は最も速いクルマを好んで買うので、フォードは、競争車を作って、それでウィントンを打ち負かして、フォード車を売ろうと決心した。
彼は、2気筒のレーシングカーを設計した。しかし、問題は、わずか26馬力のエンジンで、ライバルの40馬力に立ち向かわなければならないことだった。1901年10月10日、フォードはデトロイト近郊の競馬場でウィントンに挑んだ。

今回は、フォードの生い立ちと、フォード車の販売促進のためのレースへの挑戦の経緯を紹介した。
次回は、挑戦の成功がきっかけとなってレーシングカーを開発することになる経過を解説する。

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