交通安全コラム

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地上最高速の争い(21)―英国人の不屈の挑戦(1)―

前回は、フランス製モール車による二度の記録更新の経過とモール社の沿革を紹介した。
今回は、愛国心旺盛な英国人の登場と、その記録挑戦への努力を紹介しよう。

◆ダーティー・ロールス
次のヒーローは、英国貴族の家に生れ、冒険心旺盛なチャールズ・ロールスである。彼は、長じてエンジンに興味を示すようになり、いつも機械油で汚れていたので、“ダーティー・ロールス”というあだ名を付けられ、ケンブリッジ大学で機械工学を学んでいる。
1894年、18歳の時、彼はパリへ出かけて、初めてのクルマとしてプジョーを入手し、フランス自動車クラブに加入した。

◆愛国心への侮辱
 ロールスは、英国人に生まれたことを誇りにしていた。しかし、クルマを選ぼうとすると、英国には見るべきものがなかったので、フランス製のクルマを買わなければならなかった(図)。これは彼にとっては愛国心への侮辱であり心が痛んだ。間もなく、スピードの魅力が彼をとらえ、関心は自転車レースから自動車レースへと移っていったが、この自動車競技もフランスに集中していた。

英国の赤旗法の規定に従って赤旗を持った先導者がいる

◆フランス支配への挑戦
フランスでは、速度記録のための公認コースが用意され、大陸各地からの挑戦者によって、二日と空けずに記録への試みがおこなわれていた。コースの混雑は、まさに幹線道路並みで、県はそれを週3回に制限するほどの活況だった。
ロールスは、自動車に関する長期間のフランス支配に挑戦する決意を固め、祖国を自動車の歴史に加えるために、速度記録獲得に賭けることを決心した。ところが、英国では、既得権が鉄道と馬車を支え、赤旗法の廃止にもかかわらず、依然として、多くの議員が制限速度を効率の悪い時速14マイルに止めることを支持していた。彼の賭けは、不本意なことに、フランスで行わなければならなかった。

◆初めての挑戦
ロールスの第一回の挑戦は、セルポレが蒸気車で記録を達成する直前の1902年4月9日に行われた。彼は、前出のフランス製ガソリン車60馬力のモールで4回の走行をおこない、1キロのベストタイム35.4秒を出した。しかし、これは時速63.1マイルで、電気自動車と同タイム(時速65.79マイル)を記録したバンダービルトにも及ばなかった。
試みは失敗に終わったが、これは、速度記録に長期間君臨することになる英国の、その後の長い戦いの嚆矢として意味あるものだった。英国のために、というロールスの熱意はさらに強烈なものになっていく。

今回は、愛国心旺盛な英国人の登場と、その記録挑戦への第一歩を紹介した。
次回は、彼の二回目の記録挑戦の経緯と、新勢力の出現を紹介する。

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